海沿いのアパート
四月の終わり、私は海沿いの町へ引っ越した。
東京を離れた理由は単純だった。
疲れたのである。
三十八歳にもなって、終電近くまで働き、意味の分からない会議に付き合い、休日には仕事用チャットを確認する生活に、急に耐えられなくなった。
だから会社を辞めた。
貯金はそれほど多くなかったが、一人で生きるだけなら数年は何とかなる。
不動産サイトで偶然見つけたのが、その海沿いのアパートだった。
築四十年。
二階建て。
駅から徒歩二十五分。
家賃三万八千円。
安かった。
海が近すぎるせいだろう、と不動産屋は言った。
台風の日には波しぶきが窓まで飛ぶらしい。
だが私は気にしなかった。
むしろ、それがよかった。
もう都会にはうんざりしていた。
アパートの名前は「潮風荘」という。
昭和っぽい名前だった。
実際、建物も昭和のまま止まっているみたいだった。
外壁は色褪せ、階段の鉄は錆びている。
だが嫌な感じはしなかった。
夕方になると、潮の匂いがゆっくり流れてくる。
遠くで船のエンジン音が聞こえる。
私はすぐ、その静けさを気に入った。
住人は少なかった。
一階には老夫婦。
二階の端に、大学生らしい男。
そして私の隣室に、若い女が住んでいた。
最初に会ったのは、引っ越しの翌日だった。
ゴミ出しの場所が分からず迷っていると、後ろから声をかけられた。
「燃えるゴミは火曜ですよ」
振り向くと、白いカーディガンを着た女が立っていた。
二十代後半くらいだろうか。
背が高く、妙に色白だった。
「あ、どうも」
「最近引っ越してきた人ですよね」
「ええ」
女は少し笑った。
「ここ、静かでしょう」
「静かですね」
「静かすぎるぐらい」
彼女はそう言って、海の方を見た。
風が吹いていた。
白い髪が少し揺れる。
その時、私は違和感を覚えた。
髪が白いのである。
老人の白髪ではない。
光のない銀色に近かった。
だが妙に似合っていたので、特に気にしなかった。
「私は佐伯です」
女は言った。
「隣なので、よろしく」
私は名乗った。
その日から、私たちは時々話すようになった。
コンビニの帰り。
洗濯物を干す時。
夕方、海沿いの防波堤で。
佐伯は不思議な女だった。
仕事をしている様子がない。
だが金に困っている感じもしない。
テレビも見ない。
スマホも持っていないらしかった。
「退屈じゃないですか」
ある日、私は聞いた。
「別に」
佐伯は缶コーヒーを飲みながら答えた。
「見てればいいので」
「何を?」
「色々」
彼女は海を見る。
それ以上は説明しなかった。
私は最初、少し変わった人なのだろうと思っていた。
だが暮らしているうちに、妙なことへ気づき始めた。
まず、彼女には荷物がほとんどない。
部屋の前を通ると、いつも静かだった。
家具の音もしない。
生活感が薄いのである。
そして何より奇妙なのは、彼女がほとんど眠らないことだった。
私は夜型だった。
二時や三時まで起きていることも多い。
だがその時間でも、隣室には灯りがついている。
朝五時に目が覚めても、まだ灯りがついている。
一度だけ、気になって聞いたことがある。
「寝ないんですか」
「寝ますよ」
佐伯は笑った。
「たまに」
六月に入る頃には、私は半分無職みたいな生活になっていた。
朝、海沿いを散歩する。
昼は本を読む。
夜は酒を飲む。
金は減っていたが、不思議と焦りはなかった。
東京にいた頃より、人間らしい気がした。
そんなある日、アパートの大家が倒れた。
一階に住んでいた老人だった。
救急車が来て、近所が少し騒がしくなった。
結局、大事には至らなかったらしい。
私は夕方、防波堤でその話をした。
「年取ると色々ありますね」
すると佐伯は、少し考えるような顔をした。
「人間は壊れやすいですね」
妙な言い方だった。
「まあ、そうですね」
「でも長持ちする人もいる」
彼女は続ける。
「百年以上、ほとんど同じ人格のまま生きる人もいるし」
私は笑った。
「そんな人いませんよ」
だが佐伯は笑わなかった。
「そうですね」
風が強かった。
海面が灰色に揺れている。
私は少し寒気を覚えた。
七月になると、町で奇妙な噂が流れ始めた。
夜中、沖に光るものが見えるという。
漁師たちが話していた。
船ではない。
灯台でもない。
青白い光が、海面の下を移動しているらしい。
私は最初、ただの噂だと思った。
田舎にはそういう話が多い。
だがある夜、実際に見た。
午前三時頃だった。
眠れず、缶ビールを持って外へ出た。
海は静かだった。
波の音だけが聞こえる。
そして沖の暗闇の中で、青い光がゆっくり動いていた。
深海魚みたいな色だった。
私はしばらく見ていた。
光は一定速度で海中を進み、やがて消えた。
気味が悪かった。
翌日、その話を佐伯へした。
すると彼女は驚くほど冷静だった。
「見えたんですね」
「知ってるんですか」
「ええ」
「何なんです、あれ」
彼女は少し黙った。
それから、防波堤の先を見る。
「迎えです」
私は笑った。
「誰の?」
「私の」
その瞬間、妙に冗談へ聞こえなかった。
私は黙った。
佐伯は静かな声で続ける。
「もうすぐ帰るので」
「どこへ?」
「遠くです」
彼女はそれ以上説明しなかった。
だが、その日から私は彼女を少し怖いと思うようになった。
八月のある夜、停電が起きた。
町全体だった。
エアコンが止まり、窓の外が真っ暗になる。
私は暑さに耐えきれず、外へ出た。
すると海の方が異様に明るかった。
青白い光。
昼みたいに海面が照らされている。
私は防波堤へ向かった。
何人か住民も集まっている。
誰も喋らなかった。
沖合に、巨大な何かが浮かんでいたからだ。
最初、それが何なのか理解できなかった。
船ではない。
生き物にも見えた。
巨大な半透明の構造体が、静かに海上へ浮かんでいる。
表面を青い光が流れていた。
空気が震えている。
私は隣を見る。
佐伯が立っていた。
白い髪が風に揺れている。
彼女は、その光景を懐かしそうに見ていた。
「何なんですか、あれ」
私の声は震えていた。
「乗り物です」
彼女は答えた。
「あなた……」
佐伯は少し笑った。
「驚きました?」
私は何も言えなかった。
巨大な光の構造体が、ゆっくり近づいてくる。
音はない。
ただ空気だけが震えている。
「人間じゃないんですか」
やっと私は言った。
「半分ぐらいは」
彼女は平然としていた。
「昔は、もっと人間に近かったんですけど」
「意味が分からない」
「でしょうね」
佐伯は海を見る。
「長く居すぎました」
私は頭が混乱していた。
だが不思議と、逃げたいとは思わなかった。
むしろ、妙に納得していた。
彼女は最初から、どこか人間離れしていたのである。
眠らない。
荷物がない。
時間感覚が妙にずれている。
そして、孤独に慣れすぎている。
「何をしに地球へ?」
私は聞いた。
「観察です」
「何を」
「衰退を」
彼女は静かに答えた。
「文明が静かに終わっていく過程を見るのが、私たちの仕事なので」
私は笑いそうになった。
だが笑えなかった。
彼女は冗談を言っていない。
「終わるんですか」
「たぶん」
「いつ」
「もう始まっています」
海の光が強くなる。
私は突然、東京で感じていた疲労を思い出した。
みんな疲れていた。
働き続け、消耗し続け、それでも止まれない。
あれは衰退だったのだろうか。
「でも、人類はまだ普通に生きてますよ」
「滅亡は爆発じゃありません」
佐伯は言う。
「静かに、少しずつ、眠るみたいに終わる文明も多い」
私は海を見た。
青い光が水面を揺らしている。
「あなたは、それを見てるだけなんですか」
「はい」
「助けたりしない?」
佐伯は少し考えた。
「昔はしました」
「今は?」
「やめました」
彼女の声は妙に寂しかった。
その時、光の構造体から細い光が伸びた。
まっすぐ佐伯へ向かう。
迎えだった。
彼女は私を見る。
「あなたは、まだ大丈夫ですよ」
「何が」
「ちゃんと退屈しているので」
意味が分からなかった。
だが彼女は少し笑った。
「退屈できる文明は、まだ終わりません」
私は何か言おうとした。
だがその前に、彼女の身体が光へ溶け始めた。
白い髪。
白いカーディガン。
静かな横顔。
全部が青い粒子になって、夜の中へ消えていく。
最後に彼女は、小さく手を振った。
そして光は空へ上がった。
巨大な構造体ごと、ゆっくり海の向こうへ消えていく。
誰も喋らなかった。
波の音だけが残る。
翌朝、町は普通だった。
ニュースにもならない。
停電の原因不明。
それだけだった。
潮風荘の隣室は空になっていた。
家具も何もない。
最初から誰も住んでいなかったみたいだった。
私は部屋へ戻った。
窓を開ける。
潮の匂いが入ってくる。
遠くで船のエンジン音がした。
私はしばらく海を見ていた。
文明が終わる。
そんな大げさな話は、今でも信じられない。
だが東京へ戻りたいとも思わなかった。
私はそのまま、この町へ住み続けた。
時々、夜中に海を見る。
沖に青い光が浮かぶことがある。
そのたび、私は少しだけ安心する。
誰かが、まだ見ているのだと思う。